昭和41年03月25日 夜の御理解



 限りない神様の力、いわゆる神力無限と限りない神様の知恵、神の叡知と、そういう神の叡知、神の力というものを現わしていくのが信心。その現わしていくという事が、神様のお徳を現わすという事が、又私共がお徳を受けるという事でもある。神の叡知というのはね、人間の及びもつかないもの。例えば此処で御理解を頂きながら感じられる事はないでしょうか。何という素晴らしい表現だろうと。
 例えば先生が、どんなに学者であっても、あげな表現の仕方は、どげな風にでん書いてはあるまいと思う事がありましょうが。椛目の御理解の中に、いわゆるあれは、神の叡知なのです。神の知恵をもって、その時その時にこう臨機応変、その氏子その人の知能程度信心程度に応じて、説き明かして下さるのですね。神の叡知、神の知恵なのです。椛目の御理解の値打ちは、それだと思うのです。
 ですから、これは一辺の聞き捨てにするのでなくてです、やはりこれが神様がとっておかなければ勿体ない、ね。これは何時までも、取っておかねば勿体ないという働きがあって、ここ十五年間の御理解集と、言った様なのが書きためられていきよるのではないだろうか。又、あぁしてテープに段々とられて、それが又とらるうような働きが、私の話をテープに吹き込んでおきなさい。私が言ったことを何かに書き残しておきなさい、というのでなくてです、そうゆう働きが自ずとあるという事は、私の頭から出るものではない、私の知恵で話しているのでない。
 勿論私の信心、私の信心は、その中で出てくるけど、私の信心をです、説き明かす時の知恵というのは神の知恵である。そこに何というでしょうかね、本当にあの、私は日々、それはお取次頂くたびに思うのですね。もう本当にあの、ですからそこんところを私、皆さん分からなければ椛目で御理解頂く値打ちはないとすら思う位、同時に神の力、神の働きというもの、これを奇跡的なおかげと言った様のは、神の力、神の働きですけども、そうゆう働きを現わしていく。
 神の力、無限の神力、限りない神の知恵、そうゆう知恵に浴していく、そういう知恵を私共が授けられて、又そういう力を私共に与えられて、その力を現わしていくという事が、そのまま神様をお現わし申し上げるという事である。例えば子供が成功致しますという事は、親の名を現わす事と同じ事。自分の名を現わすあの人は、よか息子さんを持ちなさった、あの人もほんに幸せだと、兎に角お父さん、本当にやっぱり親が親だから、やっぱり子供さんも立派という様に、子供が立派になれば親の値打ちがでる様に。
 私共も神のおかげを十二分に頂かしてもろうて、初めて神様を現わすが出来る。それが神様の喜びにならんはずもないのです。そこで、そのそういう無限の神力とか、限りない神の叡知と言った様なものに触れていくと、現わしていけるという事は、どういう事かというとね、今晩私が頂きます事なんですけどね、これは私が、ある方の事をお願いさせてもらいよったら、足がヒョロヒョロちょうど何というでしょうかね、拝まにゃ通さんというものがおりますよね、足が長いのがあんなに足がこまいとです。
 それをですね、土を人力に、一杯引っ張ってから、それをやっとかっと行きよんなさるところを頂く。あれは、あのう無理引きよんなさるなら、足の方が折れしよれると、言う様な状態です。私は拝まにゃ通さんと言った様な感じで、頂くという事は、拝む事は、そうにゃあ拝みよんなさるちゅう事だと思うた。この人は、ですから人力の限りを尽くすという事です。ね、人力の限りを尽くすという事は、どういう事かというと、それを皆さんが間違えてですね。
 いろんな、その例えばお金が足りんとですね、借りに行くちゅうことだけ、もう一生懸命借り回ると言う事が、人力を尽くすと思っておる人があるんですよ。例えば病気なんかするでしょう。すると、もうあらゆる医者、あらゆる薬を飲ませて頂く事が、人間の力の限りを尽くす事だと思っておる人がおるんです。けしてそんなものじゃない。ですから、あの、人力の限りを尽くす、いわゆる人間の力の限りを尽くして、そして後に神命を待つといった様な言葉がありますけども、そこんところを誤解すると大変です。
 ですから、あの神力の限りを、人力の限りを尽くすという事はですね、信心修業に人力の限りを尽くすということなのです。人力の限りを尽くすという事はそういう事。人力の限りを尽くす、人力の限りを尽くさせて頂かなければ、いわゆる無限の神力は受けられないという事は、どうゆう事かというと、信心に人力の限りを尽くすという事は、本気で改まるという事に、人力の限りを尽くすという事。例えばここで甘い物が好きな人がある。この甘い物を止めなければ、自分はおかげが受けられんということ。
 辛い物が好きな人がおる。自分は辛い物を止めなければおかげが受けられんと、もしも分かったら、それを本気でこれを取ったり自分の楽しみがない、生きがいさえないと思う事でも、これがある事が、おかげが受けられんのだ。例えて言うなら、ならもっと分かりやすくいうなら、いわゆる自分に、まぁ盗癖のなら盗癖の癖があるとしましょうかね、泥棒ぐせがあるという人があると致しましょうか。
 これがあったんじゃあね、酒ば飲んでドタバタした位でおかげ頂けんという事はないですから、まあそういう風に申します。人間の世界で許されない事、いうならば、そういうものがあっては人間の世界で許されない事。だからこれがあってはおかげの受けられんはずがないと自分で分かったら、その事に命懸けで取り組んで改まるという事。これを人力の限りを尽くすという事なんです。そこにその人が、言わばあの人は二人見るごとならしゃったという事になるのです。
 もう人間じゃけん、こん位の事はしよんなか、神様にもお詫びして、もうお許し頂かねばしよんなかと、いいよる様な事ではね、何時まで経っても神力の、無限の神力を受ける事も現わす事も出来ません。私は今日それを思ってですね、はぁ私が二十年前に、本当にあの時分に、あぁいう信心あぁいう本気での改まりをさせて頂いたという事がです、椛目では、こうした神の叡知に触れられる事が出来るのであり、又人間の力大坪さんどんの力では出来る事ではない様な、働きが出来ていきよるのだと私は思う。
 ですから、これはこれまでの事。だからもっともっと私が、限りない神の力を現わしていきたい。神の叡知をもっと受けたいと、いうならば、私が今ここに取り組んでいる、これに命懸けでです。これを私が改まっていくという事。その事に一生懸命になる事が人力の限りを尽くすという事。だから人力の限りを尽くすという事、間違えてはいけないという事を今日、私は分からせてもらったですね。人力の限りを尽くさなければです、無限の神力に触れられないという事。
 人力の限りを尽くして、信心に打ち込ませてもらわなければです、神の叡智には浴されないという事。どうぞ皆さん、本当におかげを受ける、お徳を受けるという事はね、無限の神力を現わせるという事、無限の叡知に触れられていくという事。これは知恵があるから学者だからというて出来る事ではない。言わば特別な神様の働きを、自分の身にも頂いて、それをおかげの上に現わしていくという事がです、そのまま神様の喜びなのですから、どうでもひとつ本気でね、もうこん位な事はしよんなか。
 神様にこらえてもらわなけりゃ大目に見てもらわなけりゃ、成程大目に見なさるこらえても下さる。けれども特別なものは、神様は渡しなさらんですね。それでバチかぶる事もなかろう、お詫びすれば許してやりたいのが親心と仰るから、こらえて下さるだろう。けれども神様の「とっておき」というものを渡しなさるはずは絶対にないという事。そこんところをやり抜いていくという事が信心修行。
 それを力の限りに尽くすという事が人力の限りに尽くすという事。人力の限り、もうこれは性分じゃけん改まられん、もう神様のお許しを頂かにゃあと言う様な事なら絶対神の働きを、今私が申します様な意味合いに於いてのです、神の徳を十分に現わすという事も出来ん、自分の身にも受ける事も出来ません。だから信心はそこにです、ひとつ人力の限りを尽くさせて頂いて限りない神力に触れていきたい、限りない神の叡知に浴していきたい、そんなふうに思うですね。
   どうぞ。